無題

こうして君と会話するのは久しぶりだね、元気にしてたかい?

ああ、もしかして初めてだったかな。そんなことはどうだって良いことだ。そう思わないかな。 だってこうして文字を目で追っているのならそれで問題無いよね。

ところで、君は誰と喋っているんだと思う? 僕は本当に君の思っている人間かどうか、保証できない。 普通ならば、口調で判断するとか声で判断するとか或いは見た目で一目瞭然だとか言えるのだろうけれど、こうやって文字に書き起こされた言葉の羅列を見て相手が誰なのか判断するのって、 極めて難しいことだと思うんだよね。 いや、もっと言うと 不可能だ。 仮に僕が名前を名乗ったところで、そんなことに意味があるのだろうか。無いよね。 だって、必ず本当のことを書いているのだという保証はない。 仮に思っていたとおりの名前が書かれたとしても、その名前から想起された人間というのはもしかすると僕とは別の人間かもしれない。 ありふれた名前なら沢山の別人が存在することになる。それぞれこれを読んだ人間が「ああ、あの人か」って勝手に解釈して文面を読み切るんだけれど、実は同じ名前の別の人が書いていた物だったのかもしれない。

ここで改めて訊こうか。 君は誰と喋っているんだと思う? 僕だけは答えを言うことが出来る。何故なら僕は書き手だからだ。僕だけは僕が僕であることを判別できるし、僕が今正に書いている事を認識しているからだ。 まぁそれすらも残念ながら、懐疑の余地のある内容に過ぎない。疑い尽くせば残るのは疑う己だけだと前人は言ったが、その通りだろう。

記憶は騙す。認識は騙る。 大体、君が読んでいるという行為すら疑いに値する。これは本当に書かれた物だろうか。君がそう書いてあると思い込んでいるだけじゃないのか。 意図せずとも、字を読み違えて文意をねじ曲げて解釈してしまう時があるのだ。 言葉にするということは、それ相応のリスクを伴う。

例えばついさっき使ったリスク、という言葉も、本来は悪い意味ではない。 良いリスクと悪いリスクが有るのに悪い意味で使うことが圧倒的に多いので、何となく言葉その物に悪い意味があるように見える。 同様に運、という言葉もそうだ。本来はプラマイゼロの位置にある言葉だが、運、不運、という風に、どちらかと言えば良い方に傾いている。 そういう一般的な偏りなら良いのだが、個々人が経験則で身につけてきた言葉の意味の偏りは、それこそ個々人の人生そのものでもあるので、他人には到底理解できない何かが有る。

同じように「赤色」と言われても、思い浮かべる色は千差万別。何せ見えている色が『同じ』だと証明する手立てすら現状では存在しないのだ。 だとして、こうして僕が一生懸命書いている内容はどの程度自分の意図したとおりに君の脳内で再構築されているのか、とても分かったものではないよね。

その中で敢えて書いておこうと思ったのは、どうしても君と話がしたかったからだ。 いや。 君に、話がしたかったからだ。これを読んでいる間君はきっと黙ったまま、「何を急に馬鹿なことを」とでも思っているかもしれない。若しかすると、さっさと飛ばして次の頁をめくったかもしれない。延々こんな調子だったらもう読まないでおこうとか、そんなことを考えながら。

君が今から目にするものが何で有れ、決して良い物ではないだろう。悪い物でもない。 透明で、真っ新で、価値らしい価値の一切付与されていない文字が延々と続く。それを拾い上げて意味を把握して、何らかの感想を持つことがあるのだとすれば、それはとても興味深い現象だ。

君の人生に於いて何らかの意味―――具体的には暇潰しとしての効用が有ったのなら、これほど素敵な事は無いと思うけれどね。 世の中は実はとても不思議なことで満ち溢れている。こうして君と僕が「出遭った」事もその一つだ。 何千何億の可能性の中から選び取った一本の糸が丁度ここに繋がっていたんだからね。 そう思えばさ、世の中には奇想天外なことしかないし、奇想天外なことなんて何一つ無いって事にならない? まるで、偶然と必然の関係性のように。















2010/09/06

とある本で使おうと思っていたらどうにもメタな話になってきたからこちらに移動。