フライド・ケータイ

ゆめと現の境目について、はっきりと認識している人間がどのくらいいるのだろうか。少なくとも、僕自身はよくわかっていない。 夢だ、と思って夢を見ている事などないのだから、いつからが夢でいつからが現実か、線を引く事なんてできない。

ベッドの中で見る夢に関しては問題ない。天井に気づいた瞬間が、夢と現の境目であると表現し得る。実際には違ったとしても。

人間はもっと緩やかに夢から覚めていくのだ。漸近線のような様子で夢が現実に近づいていき、ほんの一瞬の隙に、現とすり替わるのだ。 それは大層恐ろしい事ではないか。何がその一線なのか、全く分からないのである。

白昼夢など手に負える代物ではない。何せ、いつが夢でいつが妄想であったのか、区別する手段がどこにもないのだ。

授業中に爆睡していて、それが夢だとは一切気付かずに一限を終えてしまう事もある。端と、さっきまでの自分が何処にいたのか分からなくなり、時計をみて、漸く自分は夢を見ていたのだ、と思うに至る。

しかし、それこそが夢でない保証が何処にあるというのだろうか。

「夢を見ていたのだ」と思い込む夢が無いと誰が保証できるのだ。 そんなこと、どうだっていいだろう、それはいいから早く勉強でも何でもやったらどうだ。父が言った。 僕は机に向かって、こうしてノートを広げ、しかしどうでもいい事を書き連ねている。数学の参考書は随分と前から同じ頁が開きっぱなしである。 親はいったい僕が何をしているか知らないだろう、良いざまだ。 だいたい、彼らだって他人なのだ。何の権限があって僕のプライヴェートに立ち入るのだろう。でもそう考えるとますます気味が悪くなってきた。 なぜ僕はそんな他人と同居しているのだろう。何故、他人のくせに人生を左右するような大きな決定権を握っているのだろう。不気味でしかなかった。 こんな気持ちが、『嘔吐』感だとでも言うのか、冗談じゃない。

仮にこの不安定で気味の悪い状態が夢なのだとすれば此程有り難いことは無かっただろう、と思う。 だが同時に、こんなにも酷い悪夢を見ているのに一向に目覚める気配がないことも恐ろしかった。いい加減目覚まし時計が鳴るべきなのである。 あの耳障りなアラームで僕を眠りから引き摺り出すと良い。こんなにも寝苦しいのだから、もう、起きるから、


ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリ


ガン、と喧ましい音で朝を絶叫する目覚ましを殴りつける。厳密に言えば、アラームを止める為にはその天辺のボタンを押し込むしかないのでこういう方法になっただけであって、 決して僕が怒りの余り叩き壊そうとした訳では無い。 朝から絶好調に頭が回る。まるでさっきからずっと起きていたかのように頭がすっきりしている。珍しい事もあるものだ。いつも寝起きは殆ど屍と変わらないような状態なのに。

ベッドから降りて、顔を洗う為に机の横を通って、ノートに書き殴られた何かを見付けた。いつになく汚い字に眩暈がする。眠たかったんだろうか、だったら諦めて早く寝た筈だが。ぱらぱらと捲ってみて、目を疑った。 どういうことだ。書いた覚えの全くない文章が、それも異常に汚い字で綴られている。下敷きも敷いていないような状態で書いたのか、頁が軽く波打っていた。

夢だ。きっと夢だ。最近寝付きが悪いことも多かったから―――そういうことだろう?

見なかったことにして、何事も無く顔を洗い、ご飯を食べ、学校に行く。それで良い。それが正しい。正しい?正しいって何だろう。冷たい水で顔を洗うと、目の下に軽く隈の出来た自分と顔を合わせてしまった。 『元気そうじゃないか』「どこがそう見えるのか、さっぱり分からないけど」『いい顔だよ。思い悩む文学者の顔だ』「文学者を志したことは一度もないね」『じゃあ哲学者か?思想家か?』俯いて冷水を思いっ切り被る。 昨日何だか良くないものでも食べたのかも知れない。寝る前に何をしていたか、実はさっぱり思い出せていない。ただ、必要な事は、今から15分でご飯を食べ切らなくてはならないという事だ。

トーストされた食パンの香ばしい匂い。目玉焼きと茹でたソーセージ、それとサラダ。あとは何かしら果物を剥いて食べればいいだろう。

必要なことはそれだけで

僕の妄想も何もかも、所謂夢だと思っている。僕という存在が分離しただの、僕がなにやら訳の分からない妄執に取り付かれているだの、ケータイを素揚げするだの、そういったことは全てが白昼夢なのだ。 そうであることを信じている限りその原則は揺らがぬはずである。疑うつもりもない。僕は普通だ。まともだ。きっと夢だ。そう言い聞かせて家を出る。

夢という言葉の定義なんて、僕は一度たりともしたことなんて無いのだが。



ケータイの振動音で目を醒ました。 窓の外は雨だった。しかし、雨だというには幾分か雨らしさが足らなかった。雨らしさ、というのがどういう事なのか、僕は思いもよらないが、しかし、何となく雨だと断言できない何かをそこに含んでいるように見えた。

携帯電話、という名称はもはや適切でなくなってしまった。携帯はしている。しかし、電話である必要性がなくなっている。 僕などはその典型で、電話機能とやらを使わない。そもそも僕は電話というものが怖くて、嫌いなのだ。見えもしない相手に同時刻を共有させられ、剰え声に出して話す事を要求されるのだ。変だ。おかしいじゃないか。 自分から掛けよう等とは一切思わないし、向こうから掛けられても、十中八九取らない。大事な用事なら何かメッセージでも残すだろうと思うからだ。

メールは、楽でいい。自分が返事をしなければならない、と思ったときに返せばいいのだし、文面を考える方が数百倍楽だ。話していると疲れる。僕は自分の声が好きだ。自分の内側に響くのは全て自分の声である。 しかし、誰かと話す、という事は相手の声を聞かなくてはならない。他人の声に生理的な嫌悪感を感じる。文字はそこに明確な相手の声とやらを想像せずに済む。意味だけが、漠然とそこに転がっているような。 人間の最大の発明はやはり文字だ。意思の伝達において、此れほど便利なものを、僕はほかに知らない。

相手との意思の疎通という意味では言葉なんて物はとっても完成形とは言い難い。同じ意味を共有しているという前提その物が危ういからだ。しかし、 思考自体が言葉を通して行われているので、言葉その物が無意味であるという結論には至らない。誰かのためではなくて、自分の為に必要なのだ。

僕は結局携帯という名前に引きずられた使い方をしている。電話、という部分の脱落した何かを使っているのだ。時間を見るためにかもしれない。メールを読むためにかもしれない。単に得体の知れない 安心とやらを買うために持っているのかもしれない。よくわからない。しかし携帯はしている。


そういえば昔iPodをミキサーに掛けてみる、とかいうとんでもない動画が有った。


雨の音を聞いていたらどうしてか分からないがそんなことを思い出した。僕の中で雨とミキサーに何か関連づけがなされていたとは思い難いのだが。じゃあ、何が原因だったんだろう。 それを突き詰めて考えるのもなんだか馬鹿馬鹿しいが、自分の思考回路一つトレース出来ないようでは他の何事を理解できるというのだろうか。

爽快だが、決して何の意味もなさない行為だ。それが一体何を生むのかと言えば動画としての再生回数ぐらいの物だろう。寧ろ携帯音楽プレイヤーとしての機能は失われた。相殺だ。

ああ。

また携帯だ。


ぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりりぴりりりりりり

着信を告げる不快音が鳴り響く。バイブレーダーにしていなかったのは間違いだった。消音にしてしまえばいいのだが、何となくそのタイミングを逃して結局まだ設定を弄っていない。 こういった物は一度期を逃すと二度と触らない気がする。携帯機器とはなんとなくそんな臭いがするのだ。機械の臭い?鉄の臭いか。違うな。内部機関の演算が焦げる臭いだ。

「そうか。じゃあフライにすればいいのか」

携帯を油で素揚げする。フライドケータイ。動画を撮れば再生回数というメーターは増えるだろう。着信途中の携帯に高温の油が浸潤して壊れる。プラスチックのボタンが溶ける。 部品が焦げる嫌な臭いがするだろう。もしかしたら燃えるだろうか。いや、いつ揚がるんだろう。目安がない。何分ほど油の中に入れれば良いんだろう。

いつの間にか着信音の止まっていた携帯を開き、検索キーワードにフライドケータイ レシピ と入力した。
















ゆめ
◆睡眠中にあたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。
◆現実から離れた空想や楽しい考え。
◆心の迷い。
◆はかないこと。たよりにならないこと。








ケータイ
◆持ち歩くこと、身に携えること
◆携帯電話の略称











2010/09/06
かっとなってやった。
反省はしていない。